エラブの巫女ヨネさん1

「薫太郎ギャラリー」にオキノエラブと表示された作品が多数あります。それらは沖ノ永良部島に滞在したときに描いたものです。

1964年、いまから45年前、沖縄はまだアメリカの統治下にあり、日本の最南端は与論島だった。その一つ手前が沖永良部島、いまは羽田から空路でいけるが、当時は鹿児島まで鉄道で、そこからは船だった。
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わたしの乗った与論島行き360トンの「あけぼの丸」は、デッキに豚と白菜、船室に客を満載し、荒天で一日遅れの出港をした。途中、奄美大島、徳之島と寄りながら、東京を出て4日後の真夜中に沖永良部の南部、知名の沖合いに着いた。

接岸できる港がないので、浪の荒い真っ暗な海上でハシケに乗せられ、小さな船着場にたどり着いたが、島も真っ暗だった。その晩は、船着場の近くの一軒しかない宿に泊まった。
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翌日から住む場所さがしを始めた。島の南部、知名町のメインストリートには、当時、道をはさんで十数軒の店しか並んでいなかった。宿屋の近くに、消えかかった字で観光案内所、と書かれた小さな看板のある小屋風の建物があった。
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中におじさんが一人退屈そうに座っていたので、事情をはなし、借家はないかと聞いてみた。おじさんは親切で、すぐに心当たりの場所に案内してくれたが、どこも絵を描く環境ではなく気に入らなかった。

実は旅を思い立ったときから、私は自分の住むべき場所の確乎たるイメージがあった。建物は草葺の小屋で、庭に草花が咲き、そこから海が見える。そんな所に腰をすえるぞ!と、ずっと思い続けていたのだ。

その日三ヶ所案内してもらったが、どこも望みの条件にはほど遠かった。そんなわがままな私を、おじさんはその晩自分の家に泊めてくれた。翌日も二軒紹介してくれたが、二軒とも部屋貸しの下宿だった。「気に入るところがみつかるまで、うちにいなさい」というおじさんの言葉にいつまでも甘えてもいられず、それまでのうちの一軒に決めようと思ったとき、とつぜん家並の向うから、大声を張り上げながらおばあさんが一人やって来た。

次に続く

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