Archive for 9月, 2009

エラブの巫女ヨネさん5

日曜日, 9月 27th, 2009

ヨネさんは、島で「ゆた」と云われる祈祷師である。
 祈祷、お祓いのほか、予言、占い、そして怪しげな医療行為もやっていた。
 島にはおばさんの他にも、祈祷師は何人もいたらしいが、「うちのばあさんが一番凄いと、よーいわれますなぁ」とオジは云ってたが、お客というのか信者というのか、おばさんを頼って島中からよく人が来ていた。
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 おばさんの家の片隅に、ちいさな台があり、その上にりんごの空き箱が縦に置かれていた。箱の前面は花瓶に挿された榊の枝葉に覆われて、中に何があるのか分からなかったが、それが神棚で、祈祷はその前で執り行はれた。
 おばさんへの頼みごとはさまざまだった。島を出てから消息のない息子の行方を尋ねる老婆から、無くなった大事な爪切りの在り場所を聞く人。屋根を直したいが、良い日は何日か?とか、庭の石を動かしたいが、その旨を石に伝えてほしい。また、山羊の機嫌がこの二三日よくないので、理由が知りたいなどなど、何でも有りである。要するに、自分で判断、決断できないこと、またはしたくない事ごとに、おばさんの指示を仰ぎにくるのだ。
島の日常生活には、神の代理人は不可欠な存在である。

 どんな依頼であろうと、おばさんの祈祷はこんなふうに始まる。 「この家屋敷郭内を、お貸し賜りますところーの、ウルヌルフーヌル、フーヌルヌウの神に願いあげたてまつ。うじ虫這い虫目にかけず、生霊死霊めにかけず、、、」そのあとは島の言葉でしゃべりっまくるが、私には一言も解らなかった。
 わたしは好奇心にかられ、おばさんの祈祷の場に度々同席したが、時々おばさんは入神状態になって、ひっくり返ったり、のけぞって暴れ、奇声を張り上げたりしながら、その合間に、神のお告げをしゃべっていた。
 依頼者は「イェ、イェー」と、畏敬の声をあげ、おでこを床にこすりつけてから、いくばくかの謝礼を神棚に置くのだ。
 その場に私がいると、たいていの来訪者は未知の私をみて、これは何者かとおばさんに聞く、おばさんは、厳かに「この兄さんはやぁ、アタイと神のきょうだい!」と答える。そのとき客からは、例外なく気のない返事がかえってくる。すると、おばさんの威厳に満ちた大声がひびく。
 「神の兄弟というものはアルド!」客は恐れ入って「イェ、イェー!」とひれ伏す。 わたしは、おばさんの神の兄弟として人に知られ、オジもそのように、私を遇してくれた。

続く
 

エラブの巫女ヨネさん4

日曜日, 9月 20th, 2009

 ヨネさんとオジのお世話になりながら、この小屋での生活がはじまった。
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 ヨネさんはわたしの母親と同年で当時65才だった。そのせいもあってか、出会ったときの奇っ怪な違和感はすぐに掻き消え、長年の旅から、帰るべき所に戻ってきたような安らぎを感じた。
 しかし、その安堵感とうらはらに、島の自然のきびしさは、心をえぐってくるような孤独な雰囲気に満ちていた。未知の地で私がそう感じるのは当然だが、ヨネさんとオジもまた、透明な孤独のなかで生きているのが感じられたのだ。
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 島にはジーゼル発電の電気があったが、わたしの小屋は石油ランプだった。
 寂しい夜には、20ワットの電灯でさえも明るく感じるヨネさんの小屋で、三人はよく茶を飲んだ。
 そんなとき、ヨネさんの問わず語りは延々と続き、送電の終わる10時になることもあった。ハシケの転覆事故で妻子を失い、一人になってしまったオジのこともそれで知ったのだ。
 だが、ヨネさんの数奇と驚異に満ちた生い立ちと、家族も持たず、ひとりで生き抜いてきたその後の人生の物語は、尽きることはなかった。

つぎに続く

エラブの巫女ヨネさん3

木曜日, 9月 17th, 2009

おばあさんの名は池上ヨネといい、オジとかノリツナ君と呼ばれる純朴なおじさんと暮らしていた。あとで分かったことだが、二人は夫婦ではなく、ノリツナ君はヨネばあさんに仕える僕(しもべ)か信者のような存在で、炊事から身の回りの世話を全部やっていた。そのうえ、家はオジのもので、ヨネさんはそこに君臨する聖なる居候であった。

草葺き小屋を借りて住むことになった翌日、オジは、私がそこに連れてこられたいきさつを、トツトツと語ってくれた。

一週間ほど前の朝、目を覚ましたばあさんが、「ゆうべここに立っておった男は誰じゃ」と独り言いってましたが、それから毎晩おなじ男が夢に来るといってました。どんな男か?と聞くとですな、「あごひげで大きな男じゃ。目が細くて男前、足が悪るそうじゃ」といっとりました。そして昨日です。うちに来た近所の人が、住む家をさがしてる旅からの者がおるそうじゃ、という話をきくと、ばあさんはあたしに、「小屋の中をきれいにしとけ、あの男が来たんじゃ、連れてくる。」と言って出ていったんです。

ばあさんが連れてきたしぇんしぇを見たとき、わたしは本当にびっくりしましたなぁ。ひげの大男、細目の男前。ばあさんがいつも言ってたとおりの人でした。(注、島の男は黒目でパッチリ。島でいけめんの第一条件は細くて小さい目)でも足が悪いというのは違っておりましたなぁ。

わたしは、ズボンをまくって義足を見せた。オジは絶句し、ヨネばあさんは驚きもせず、「フシギ、カンシン、カワァヤソウ、カミノヒッキャワセ」(不思議、感心、可愛そう、神の引き合わせ)この言葉を、首をふりながら何回もくりかえしていた。

つぎに続く

エラブの巫女ヨネさん2

火曜日, 9月 15th, 2009

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なにやら叫びながら近づいてきたのは、やせ細った体に丈の短い和服を着たおばあさんだった。しわだらけの三角の顔、片方の目は開いてはいるが失明しているのがわかった。髪だけは黒々と光り、つよい椿油のにおいを漂わしていた。

「おお!この兄さんじゃ、このにいさんじゃ!」おばあさんは、骨ばった手で私の手をとり、「にいさんはヤァ、うちに来る事になってるチィ。」そお言うと私の手を引き歩きだした。振り返るとおじさんは、「いってみろ」と目で合図してた。

長い一本道を歩いた。家並みの終るあたりの空き地のおくに、おばあさんの家があった。低いブロックの囲いの中、右手にトタン屋根の小屋。「ここがアタイとオジの家じゃ。にいさんはこっちに住め」 左手のおおきなガジュマルの樹の下に草屋根の小屋があり、広い庭のはづれには紅い花が咲いてるではないか、その先の低地にサトウキビ畑、その向うには、たとえようもない青緑の海が見えるのだ。えがき続けたイメージが、そのまんま目の前に広がっていた。

「にいさんが来るのは分かっておったでやぁ、オジに掃除させてある。」粗末な板と丸太と萱の掘っ立て小屋だが、中はきれいに片付いていた。でもそんなことは信じられない。風景は偶然だし、ばあさんの言葉は方便さ、と思った。

だが、なにはともあれそこに住むことになった。

今日はここまで、またあした。

エラブの巫女ヨネさん1

日曜日, 9月 13th, 2009

「薫太郎ギャラリー」にオキノエラブと表示された作品が多数あります。それらは沖ノ永良部島に滞在したときに描いたものです。

1964年、いまから45年前、沖縄はまだアメリカの統治下にあり、日本の最南端は与論島だった。その一つ手前が沖永良部島、いまは羽田から空路でいけるが、当時は鹿児島まで鉄道で、そこからは船だった。
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わたしの乗った与論島行き360トンの「あけぼの丸」は、デッキに豚と白菜、船室に客を満載し、荒天で一日遅れの出港をした。途中、奄美大島、徳之島と寄りながら、東京を出て4日後の真夜中に沖永良部の南部、知名の沖合いに着いた。

接岸できる港がないので、浪の荒い真っ暗な海上でハシケに乗せられ、小さな船着場にたどり着いたが、島も真っ暗だった。その晩は、船着場の近くの一軒しかない宿に泊まった。
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翌日から住む場所さがしを始めた。島の南部、知名町のメインストリートには、当時、道をはさんで十数軒の店しか並んでいなかった。宿屋の近くに、消えかかった字で観光案内所、と書かれた小さな看板のある小屋風の建物があった。
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中におじさんが一人退屈そうに座っていたので、事情をはなし、借家はないかと聞いてみた。おじさんは親切で、すぐに心当たりの場所に案内してくれたが、どこも絵を描く環境ではなく気に入らなかった。

実は旅を思い立ったときから、私は自分の住むべき場所の確乎たるイメージがあった。建物は草葺の小屋で、庭に草花が咲き、そこから海が見える。そんな所に腰をすえるぞ!と、ずっと思い続けていたのだ。

その日三ヶ所案内してもらったが、どこも望みの条件にはほど遠かった。そんなわがままな私を、おじさんはその晩自分の家に泊めてくれた。翌日も二軒紹介してくれたが、二軒とも部屋貸しの下宿だった。「気に入るところがみつかるまで、うちにいなさい」というおじさんの言葉にいつまでも甘えてもいられず、それまでのうちの一軒に決めようと思ったとき、とつぜん家並の向うから、大声を張り上げながらおばあさんが一人やって来た。

次に続く

肺気腫と煙草について

火曜日, 9月 8th, 2009

前々回、休息からの復帰で、肺気腫のことにふれましたが、それはどういうものか知らない人のためにかきます。

肺は酸素をとりいれ、ガスを排気しているわけですが、肺が排気ガスを吐ききれず、したがって空気が存分に吸い込めなくなるのです。当然息苦しいし、血の中に酸素がとけこまないので、身体じゅうの酸素が足りなくなるのです。ちょっと動いても息がきれるし、もっとも酸素をうんと使う脳の働きがわるくなります。

肺気腫は、いまや国民病といわれ、たばこが元凶といわれていますが、それだけではなく様ざまな空気の汚染も原因とおもいます。かつてタバコをこよなく愛し、十四才から六十年もの間、喜怒哀楽を共にしてきたタバコちゃん。押しつぶされそうなストレスを救ってくれ、困難な仕事をやりおおせたとき、共に祝ってくれたタバコちゃん。私はそれをいまさら恨むつもりはまったくありません。

たばこの害について、近頃とみにいわれていますが、わたしはかねてから、あの映画監督市川昆さんや、川内こうはん先生にあやかり死ぬときはくわえ煙草で、と思っていました。

しかし、気持ちは今でもタバコが吸いたいのですが、身体のほうが嫌がって吸ってくれないのです。

それで思い浮かぶのがアメリカの抽象表現主義の画家、マーク・ロスコです。彼はものすごい愛煙家でしたが、六十五才のとき肺気腫と診断され、二年後に自ら命を絶ちました。

自殺の原因はしりませんが、ロスコは「タバコが吸えないくらいなら生きていてもしょうがない、、、」と思うほど、絵をかくこと、つまり生きること煙草は分かちがたいものだったのでは、とわたしは思っています。何も描かれていない赤や黒の大画面、ロスコ晩年の作品から私はそう感じるのです。

ロスコの愛煙家ぶりや作品は、YouTubeで見られるので、興味あるかたはみてください。

最後にひと言。肺気腫でたばこがすえないくやしさと、息苦しいつらさに、アッサリこの世にバイバイする度胸のない人は、いますぐ煙草をやめてください。

昨日の続き・・・

土曜日, 9月 5th, 2009

私は小屋がすきです。掘っ立て小屋とか、バラックという言葉を聞いただけでも心がフワッとなります。子供のときからそんな家にしか住んだことがないからです。そして今でも手製のバラック小屋に住んでいます。

そんな家に住んでいるのに、子供のときの遊びでいちばんのお気に入りは、いまの子供もそうですが空き地のくさむらなどに仲間と作る、「秘密基地」という小屋だったのです。

源信さんのうたが心にしみたのも、記憶に残っている子供のときの小屋あそびの、草の匂いだったのかもしれないし、もっとおおげさに言えば、草原や森林をかけめぐって生きていた私たちの祖先、縄文人の血がさわぐからだと思うのです。

それと、私は滅んで消えて往くものが好きなんです。「・・・・もとの草野なりけり」この哀愁さえ感じさせるスッキリ感。だから、消え行く過程の、不用になって、たち腐れていく小屋や、廃屋のあばら家に出会ったりすると、去りゆくものの後姿にボォーとなって、その場を立ち去りがたくなるのです。

近日中に「滅びの美」というカテゴリーで、廃屋をはじめ、野末や集落のはずれで、人々に忘れられ、ひっそりとたたずむ物たちの写真を公開いたします。

離せばもとの草野のなりけり

木曜日, 9月 3rd, 2009

” 引き寄せて結べば草のいほりにて はなせばもとの草野なりけり ”

これは今から千年以上も昔の、源信という名の偉いお坊さんのうただそうです。

若いときに、なにかの本にのっていたのを読んで以来、わたしの座右銘のひとつになっていいます。

だけど、なにも高邁な精神の持ち主になりたくて、この歌を心にやきつけたわけではありません。子供のときから女好きで惚れっぽく、一度すきになると執念深く、何も手につかないし苦しくてしょうがない。今ならストーカーというところでしょう。それがいやで、そういうときにこの歌を念仏のようにくちずさんでいると、結んだ草がほどけて、広い草原を風が吹き渡る場景が心に浮かぶんです。

青い空に白い雲。遠くにかすむ山並みまで、銀色のすすきの穂が風に波立つ場景。そこに人のすがたはどこにもない。やがて自分自身も消えてなくなる。

何かに囚われ、こだわり、執着心で苦しいとき、いちど試してみてください。