2005年07月06日
三条小鍛冶宗近の刀
変なじいさんの話の続き
見た目は泥だらけのボロを身にまとい、前世紀の百姓ふうだが、じいさんには百戦錬磨の武田の武将を思わせる風格があった。
それでいながら、風雅で柔和、一途な童心の純真さも感じられた。 親子ほど年の離れた、どこの馬の骨ともしれない若造の俺にたいする、謙虚すぎるくらいのその接し方は、それまで持っていた田舎の人にたいする俺の偏見を、一挙に吹き飛ばしてしまった。
それまでも、旅先や滞在さきで何人もの風変わりな人物に出会ってきたが、この彦一じいさんとの出会いは、ダイヤモンドの鉱脈を掘り当てた山師のような心境に、俺をさせてくれた。
ほんの腰かけのつもりでいたこの地に、永住を覚悟したのも、彦一じいさんとの出会いと、あの一言である。「どんないきさつでここに来たのか知らんけんど、宗近さんの生まれ変わりとして、そのゆかりの場所に、先生はくるべくして来たのでごいす」よく言われる生まれ変わりの話など、俺はまったく信じたことはない。もし人に前世を聞かれれば、「箱根街道の胡麻の蝿さ」ぐらいに答えるだろう。だが、ひとに、刀匠三条小鍛冶宗近の生まれ変わりなどと言われると、それが何者なのかよく知らないのに、立派な名前のひびきだけで妙にそわそわしてしまった。だが生まれ変わりの話はじいさんの夢として大事にしておくとして、その刀匠ゆかりの場所で創作活動をするからには、彼の鍛えた太刀を一振り持ちたいものだと、俺は考えた。そこで東京に帰ったとき、刀剣にくわしい、先輩の彫刻家を訪ねて聞いてみた。「三条小鍛冶宗近の刀が欲しいんだけど、どこかにないですか、一本世話してほしいんですが。」先輩は渋い顔で俺をまじまじとみつめていたが、にやにやと笑いはじめた。こいつは心当たりがあるなと俺はにらんだ。ひょっとすると、宗近を持っていて、いい鴨がきたから高く売りつけてやろうとしてるなと思った。「ムネチカの刀か。あるよ」「ここに?」「ばかいうな!上野の国立博物館だよ。国宝だ」俺はそのとき自分の無知を恥るとともに、彦一じいさんの素朴な思い込みを、素直に受け入れようと思った。
投稿者 kuntaro : 18:41 | コメント (2)
2005年07月05日
変なじいさんの話
一人で小屋づくり始めた俺の作業を、いつも遠くの田んぼ道からみているじいさんがいた。そこは村の集落から離れた崖っぷちの、草ぼうぼうの田んぼの中で、人が住むような場所ではなかった。そんな所に得体の知れないよそ者が、薪にするような廃材でなにやら作りはじめたのだ。集落の住民の、疑心と好奇心を刺激したにちがいないが、排他的で、閉鎖的な村人はだれひとり近寄ってこない。誰も正体不明のよそものに、かかわりを持ちたくないのだ。そのじいさんだけが、遠くからとはいえ、田んぼの農作業の行き帰りに、立ち止まっては、俺の小屋づくりを眺めていくのだ。はじめは俺のほうが無視していたが、いつか、どっちからともなく会釈するようになった。トタン屋根がやっと出来上がったとき、俺は脇の小道の土手に腰かけ、満足なおもいでそれを見ていた。その時、ふと、人の気配にふりむくと、すぐそばにじいさんが立っていた。らっきょう形の顔におおきな耳とおおきな鼻、てれくさそうに丸刈りの白髪あたまに置かれた手も大きい。長い眉毛の下の垂れ目が、しわの中で恥ずかしそうに微笑んでいた。富岡鉄斎の画中の人物のような風貌である。違うのはその衣服で、よれよれで泥まみれのシャツ、穴だらけのズボンは、左右ちがう長さにまくりあげられ、そこから突き出た筋張った足も大きく、裸足だった。顔やしぐさに似合わず、せすじを伸ばしてすっくと立つ姿には、古武士の風格があった。じいさんは、土手に腰かけている俺の前まで、無言で数歩あゆみよると、いきなり石だらけの地面に正座した。節くれだった大きな手を、破れたズボンの膝にきちんと置くと、深々と頭をさげてこう言った「絵描きさんだと聞いたんでごいすが、、、先生は、三条小鍛冶宗近の生まれ変わりじゃあねえかと、おれ、こう思うんだけんど、いかがなもんでごいしょう」あっけにとられて戸惑う俺をしり目に、じいさんはたたみかけるように「能の<小鍛冶>ごぞんじでしょう、きつねに向こう鎚を打たせた刀鍛冶でごいす」実は能のことも刀鍛冶のことも、俺は何も知らなかったのだが、じいさんの話はこうである。平安時代の昔、京都三条に住む宗近という刀鍛冶が、この地に来て刀を造った。その鍛冶場のあったところが、俺のところのすぐ後ろで、そこの崖下の川岸を鍛冶屋淵というのだそうだ。俺がその刀つくりの鍛冶屋さんの生まれ変わりではないかという理由を、じいさんはこう言うのだ。刀というのは一人では造れない、向こう鎚という大きなトンカチで刀をたたく助手が必要なのに、宗近さんは(じいさんは、宗近と呼び捨てにしない)一人で刀を造った。見ていれば、あんたも、一人では絶対無理だと思われる作業をやりこなしている。それに、この村に住み着いたよそ者は、宗近さん以来千年このかた、あんたが二人目。それが共に芸術家というのは、けっして偶然じゃない。あんたは宗近さんの再来にちがいない。これがじいさんの意見だった。そしてその後、よそ者の俺に村でただ一人、心をひらいて受け入れてくれたこのじいさんと、長く、親密なつきあいが続くのだ。じいさんの名は彦一。奇人である。
投稿者 kuntaro : 18:33 | コメント (0)
2005年07月01日
宇宙船の基地は掘っ建て小屋
山梨県の八ケ岳山麓の寒村に人力宇宙船の基地がある。人力宇宙船基地といえばきこえはいいが、掘っ建てのバラック小屋である。
船長の俺が、拾ったりもらったりした廃材で、一人でこつこつ造ったものだ。鳥だってけものだって、自分の巣は自分で作る。人間だって昔はそうだった。源信というむかしの偉い坊さんが詠んだ歌に「ひきよせて 結べば草のいほりにて はなせばもとの草野なりせば」というのがあるが、なんとも格好がいいではないか。だいいち、長期のローンで苦しむことも、環境破壊の憂いもない。ホームレスのおっちゃん達の、段ボールやブルーシートの小屋を見りゃあ分かるように、人間ひとり、雨風しのぐ程度のことはそんなに難しくないのだ。もうちょっと長持ちする小屋がほしけりゃ、段ボールやシートの代わりに古材やトタン板を使えばいいのだ。建築の知識や、大工の経験などなくとも、見よう見まねでなんとかなるもんだ。だいたい構造物なんてものは、縦横十文字に固めていけば、それなりに、がっちり丈夫になるもんだ。それが証拠に、最初八帖一間のバラックが、三十五年のあいだに一部二階で、床面積三十坪にふくれあがってしまった。地震?そんなものはきてみなきゃ分からない。ぶっ壊れたら又つくればいいのだ。